とかみる

とりあえず書いてみる。

現状維持か変化か、正しい比較方法

AからBへ変化するものがあるとする。Aは現状維持でBは変化である。AかBか、現状維持か変化か、どちらが良い選択なのか比較したい。

 

通常は、A→Bのメリット・デメリットと変化のコストを考えて比較するだろう。自分はここに、B→Aのメリット・デメリットも考える比較方法を提案したい。

 

例えば、中学高校における古文漢文の授業を一切なくすという変化。通常は、古文漢文の授業をなくすことのメリット・デメリットとコストを考えて比較する。だが、それだけでなく、古文漢文の授業がなかったことろに、今と同じだけ授業を増やすことのメリット・デメリットも考えよう、というわけである。

 

人は変化に厳しい目を向けがちだ。A→Bだけの比較では、AとBが同じ立場で比較されていると言えない。B→Aの比較も加えることで、初めてAとBを平等に比較できるのではないか。

 

執筆者:ga_ku

他人と比較しないほうがいい

自分より優れている人、金持ちの人などを妬み、羨み、彼ら彼女らは自分よりもずっと楽なんだろうなあと思うことがしばしばある。

 

だが、前にも述べたが幸福は各人の基準で決まるので、外から見てこの人はこの人より幸せと簡単に決められるものではない。

 

例えば、明治大学C判定、東京大学E判定の人が、明治大学A判定、東京大学C判定の人を羨むとする。この時、明治大学C判定の人と同じだけ東京大学C判定の人も悩んでいるのである。悩みの大きさは同じ。ただ悩みの次元は違う。

 

でも悩みの大きさは同じだから二人とも各々同じだけ苦しんでいる。

 

つまり、人と比べたって結局その人も自分と同じだけ苦しんでることが多々あるということだ。別の次元で。

 

見かけでは自分の方が苦労しているように見えても。

 

 

執筆者:sh_o

世間とは

世間の目が気になる。

 

この世間ってどこまでの範囲のことを言うのか、そもそも何なのか。

 

我々の生活範囲はせいぜい自宅とその近辺と学校や会社とその近辺くらいであろう。

 

地球には70億人ほど人間がいる。日本にも1億人以上の人間がいる。考えてみると、1日に会う人もしくは自分を認識してくれる人は相当少ないのではないか。

 

そんな狭い範囲のことを世間と言ってると思うと、なんだかばかばかしくなってくる気がする。

 

世間とは日本全国、全世界のことだと思いがちだが、意外にも狭いのかもしれない。

 

そもそも自分の幻想、思い込みであるとも言える。

 

そこまで世間の目なんか気にしなくてもいいのかもしれない。

 

 

執筆者:sh_o

道徳教育は無意味

大人は子どもの能力を過少に評価しがちである。だから教育で何とかしなければならないと考えている。しかし、子どもは大人が思っている以上に自分で考えて行動している。

 

子どもを変えられるのは強制的な教育でなく、自分自身で出した答えだろう。尊敬する人憧れの人からは人生を決めるほど多くのことを学び、尊敬してない教師や親などからは何を言われても身に沁みない。

 

道徳教育などと言ってる人はここをわかっていない。道徳の教科書が子どもに尊敬されるわけがない。子どもが道徳教育から学ぶものは何もないのである。はっきり時間の無駄だと言っておこう。

 

執筆者:ga_ku

なぜりんごが思考に用いられるのか

りんごが思考に用いられることは多い。1+1を考えるとき、人がモノを認識する過程を考えるとき、モノの代表としてりんごが用いられる。なぜりんごなのか。理由として考えられる特徴を挙げてみる。

 

1.赤い
赤は最も基本の色。色と言ったら赤を想像する。

2.丸い
角がなく安心感につながる。書きやすい。想像しやすい。

3.程よい大きさ
モノとして十分な存在感があり、大きすぎず扱いやすい。

4.食べられる(甘くておいしい)
安心感につながる。

5.樹に実る
安心感、知性、神聖さにつながる。

6.身近
身近でなければ、そもそも思考するときに思い浮かべない。

 

こう考えると、りんごは思考にもってこいの選ばれた存在であることがわかる。安心感ってなんだよと思うかもしれないが、ドリアンで思考したら頭の中が大変なことになりそうだ。

 

執筆者:ga_ku