ルールには理由が欲しい
小中学校では意味わからないルールがいっぱいあった。
なぜそのルールが存在するのか理由が欲しい。そうすれば納得するか抗議するかができる。
例えば、帰り道に水筒の中の水を飲んではいけないというルールがあった。これはおそらく交通安全の観点から作られたものであろう。
ただ、立ち止まって安全な場所で飲めば危険はないだろう。
このように、小中学校には全く合理的でないルールが蔓延しているように感じた。
これからはしっかり理由を示して、ルールの本質を教えて欲しい。
執筆者 : sh_o
現状維持か変化か、正しい比較方法
AからBへ変化するものがあるとする。Aは現状維持でBは変化である。AかBか、現状維持か変化か、どちらが良い選択なのか比較したい。
通常は、A→Bのメリット・デメリットと変化のコストを考えて比較するだろう。自分はここに、B→Aのメリット・デメリットも考える比較方法を提案したい。
例えば、中学高校における古文漢文の授業を一切なくすという変化。通常は、古文漢文の授業をなくすことのメリット・デメリットとコストを考えて比較する。だが、それだけでなく、古文漢文の授業がなかったことろに、今と同じだけ授業を増やすことのメリット・デメリットも考えよう、というわけである。
人は変化に厳しい目を向けがちだ。A→Bだけの比較では、AとBが同じ立場で比較されていると言えない。B→Aの比較も加えることで、初めてAとBを平等に比較できるのではないか。
執筆者:ga_ku
他人と比較しないほうがいい
自分より優れている人、金持ちの人などを妬み、羨み、彼ら彼女らは自分よりもずっと楽なんだろうなあと思うことがしばしばある。
だが、前にも述べたが幸福は各人の基準で決まるので、外から見てこの人はこの人より幸せと簡単に決められるものではない。
例えば、明治大学C判定、東京大学E判定の人が、明治大学A判定、東京大学C判定の人を羨むとする。この時、明治大学C判定の人と同じだけ東京大学C判定の人も悩んでいるのである。悩みの大きさは同じ。ただ悩みの次元は違う。
でも悩みの大きさは同じだから二人とも各々同じだけ苦しんでいる。
つまり、人と比べたって結局その人も自分と同じだけ苦しんでることが多々あるということだ。別の次元で。
見かけでは自分の方が苦労しているように見えても。
執筆者:sh_o
世間とは
世間の目が気になる。
この世間ってどこまでの範囲のことを言うのか、そもそも何なのか。
我々の生活範囲はせいぜい自宅とその近辺と学校や会社とその近辺くらいであろう。
地球には70億人ほど人間がいる。日本にも1億人以上の人間がいる。考えてみると、1日に会う人もしくは自分を認識してくれる人は相当少ないのではないか。
そんな狭い範囲のことを世間と言ってると思うと、なんだかばかばかしくなってくる気がする。
世間とは日本全国、全世界のことだと思いがちだが、意外にも狭いのかもしれない。
そもそも自分の幻想、思い込みであるとも言える。
そこまで世間の目なんか気にしなくてもいいのかもしれない。
執筆者:sh_o