教育を終えた人の自殺
児童生徒の自殺に関する報道は多いが、学生や社会人の自殺は報道されない。これは報道が教育機関の責任やあり方を問うているからである。責任が自分にあると考えられてる自殺はあまり目を向けられない。
理論的に考えると最も価値のある人間は教育を終えた若い人である。この人たちの自殺が社会に一番ダメージがあると考えると、これはもっと問題視されるべきである。
児童生徒の自殺を軽視していいわけでもなく、もっと自殺が報道されるべきだというのでもなく、教育を終えた人たちの自殺について問題意識がないのはどうなのか。
執筆者:ga_ku
幸せとは
「あなたは今幸せですか?」
こう聞かれたらどう答えるであろうか。今回は、「幸せ」とは何かについて簡単に見ていきたい。
幸せとは、ある種の幸福の次元なるものさしにおいて、低次元から高次元へ移ったときに感じるものであると考える。幸福の次元はある程度、絶対量で、現象Aは値aといったように決まっている。例えば、「100円を拾った」という現象は比較的低い次元に位置付けられるだろう。
幸せを感じるのに大切なことは、この次元の高低ではないということだ。現状からどれほど上の次元に到達したかが重要であるのだ。普段は、毎日元気に生活できていることになんの興味も示さないが、風邪で寝込んでそのあと治ったときには、元気に普段の生活が送れることが最高の幸せと感じるように。
そして、多くの人々はこの幸福の次元に制限がないのではないかと思う。要するに、常に高次の幸福を求めるのだ。もちろん現状維持で幸せを感じる人もいるが。
幸せとは外部から幸福の次元をもって高低を比較できるものではない。金持ちの方が、ホームレスより幸せとは言えない。幸せは各々の中での次元の増減で測られるものである。
我々が毎日幸せに生きるためには、この原則に基づき、小さな幸福の増大に気づくことが重要ではないかと思う。日々の小さなハッピーに目を向けると、意外に自分は幸せなんだと感じられるかもしれない。
執筆者 : sh_o
正しい事なんて何もない
男女平等が絶対正しいという意見をたまに聞く。男女平等が正しいと言う人は、どのような思考で結論を出しているのだろうか。それはその人が持っている基準で判断した結果、男女平等は正しいという結論が出るのである。基準には社会に有益であるからとか、常識なんだから当たり前じゃんとか、いろいろなものがある。男女平等と言っておけば好感度が上がるから、なんてのもあるかもしれない。
ここで正しさを議論するのは学問的なことではなく、社会制度・行動といったものである。そういったものごとの正しさを判断するときに、基準が必要になる。基準には基準の正しさを判断するものもある。好感度が上がるのを良しとする基準を正しいとする基準には、人に好かれるのを良しとする基準があるように。ある基準を正しいとする基準もあれば、間違っているとする基準もある。
ここで重要なのは、絶対的な基準は存在しないということである。絶対的な基準は存在しないのだから、絶対に正しい事なんてない。
男女平等が絶対に正しいわけではない。民主主義が社会の在り方として絶対に正しいわけではない。それを正しいとする基準を持つ社会において正しいというだけである。
執筆者:ga_ku