とかみる

とりあえず書いてみる。

世間とは

世間の目が気になる。

 

この世間ってどこまでの範囲のことを言うのか、そもそも何なのか。

 

我々の生活範囲はせいぜい自宅とその近辺と学校や会社とその近辺くらいであろう。

 

地球には70億人ほど人間がいる。日本にも1億人以上の人間がいる。考えてみると、1日に会う人もしくは自分を認識してくれる人は相当少ないのではないか。

 

そんな狭い範囲のことを世間と言ってると思うと、なんだかばかばかしくなってくる気がする。

 

世間とは日本全国、全世界のことだと思いがちだが、意外にも狭いのかもしれない。

 

そもそも自分の幻想、思い込みであるとも言える。

 

そこまで世間の目なんか気にしなくてもいいのかもしれない。

 

 

執筆者:sh_o

道徳教育は無意味

大人は子どもの能力を過少に評価しがちである。だから教育で何とかしなければならないと考えている。しかし、子どもは大人が思っている以上に自分で考えて行動している。

 

子どもを変えられるのは強制的な教育でなく、自分自身で出した答えだろう。尊敬する人憧れの人からは人生を決めるほど多くのことを学び、尊敬してない教師や親などからは何を言われても身に沁みない。

 

道徳教育などと言ってる人はここをわかっていない。道徳の教科書が子どもに尊敬されるわけがない。子どもが道徳教育から学ぶものは何もないのである。はっきり時間の無駄だと言っておこう。

 

執筆者:ga_ku

なぜりんごが思考に用いられるのか

りんごが思考に用いられることは多い。1+1を考えるとき、人がモノを認識する過程を考えるとき、モノの代表としてりんごが用いられる。なぜりんごなのか。理由として考えられる特徴を挙げてみる。

 

1.赤い
赤は最も基本の色。色と言ったら赤を想像する。

2.丸い
角がなく安心感につながる。書きやすい。想像しやすい。

3.程よい大きさ
モノとして十分な存在感があり、大きすぎず扱いやすい。

4.食べられる(甘くておいしい)
安心感につながる。

5.樹に実る
安心感、知性、神聖さにつながる。

6.身近
身近でなければ、そもそも思考するときに思い浮かべない。

 

こう考えると、りんごは思考にもってこいの選ばれた存在であることがわかる。安心感ってなんだよと思うかもしれないが、ドリアンで思考したら頭の中が大変なことになりそうだ。

 

執筆者:ga_ku

デモ嫌い

デモに参加している人を見ると、思考停止している人が集まっている、と感じてしまう。思考停止の問題点は、より良い答えを出そうとする議論ができないところにある。彼らはすでに自分の中で決まっている答えを変えようとしないのだ。ここに、自分のデモ嫌いの原因がある。より良い方向を決める気がないのだから、より良い方向に進むことなんてできない。

 

日本では政治的な関心が低いからデモが起こらないと言う人がいるが、馬鹿が少ないからデモが起こらないのが真実ではないだろうか。思考停止して熱くなってるのは、より良い方向に進もうとする賢い人のすることではない。

 

執筆者:ga_ku

教育を終えた人の自殺

児童生徒の自殺に関する報道は多いが、学生や社会人の自殺は報道されない。これは報道が教育機関の責任やあり方を問うているからである。責任が自分にあると考えられてる自殺はあまり目を向けられない。

 

理論的に考えると最も価値のある人間は教育を終えた若い人である。この人たちの自殺が社会に一番ダメージがあると考えると、これはもっと問題視されるべきである。

 

児童生徒の自殺を軽視していいわけでもなく、もっと自殺が報道されるべきだというのでもなく、教育を終えた人たちの自殺について問題意識がないのはどうなのか。

 

執筆者:ga_ku